ある日、会わせたい人がいるから予定を空けておいてほしい、と彩佳に言われた。
このまま、那緒とつき合ってもいいかもしれない、とぼんやりと思い始めた矢先のことだった。



 その日は朝から、雲一つない澄んだ青空が広がっていた。キッチンでは、彩佳と乙が何やら忙しそうに動き回っている。

「乙、アップルパイ作るから林檎持ってきて」

「いくつ使うんだ?」

「三個。大きさは適当でいいから」

「分かった」

 今日は二時頃に来る予定のお客さんの為に、もてなし用のお菓子を作っている。例の会わせたい人が来るらしい。
 乙がテラスにあるテーブルに皿を並べ、紅茶のポットを置いた時オーブンが鳴った。
そして、奥から香ばしい匂いとともに、アップルパイとクッキーを持った彩佳が出てきた。
 丁度その時、来客を告げるベルの音が聴こえた。
 手にしていたお菓子をテーブルに置くと、玄関へ出迎えに行った。扉を開けると一人の女性が立っていた。

「こんにちは、彩佳」

「いらっしゃい。中へどうぞ」

 彼女をテラスへと案内し、花を飾りつけていた乙に紹介した。

「こちら片科 璃亜(かたしな りあ)さん。僕の…彼女だよ」

「初めまして」

 手を止め、乙は軽くお辞儀をする彼女を真正面から見た。
その時、サァっと三人の間に風が吹き抜けた。幼い頃に亡くした母のような、優しい瞳が綺麗だと思った。

「璃亜。彼は緋和 乙。僕の弟だよ」

「あ…え…っと初めまして」

 きごちなく挨拶した後、お茶会が始まった。
紅茶のクッキーとシナモンティー、それからメインのアップルパイ。
彩佳が作ったものはどれも絶品で、話は弾み口の中に広がる甘さに舌鼓を打った。
 初めて会ったとは思えない程、話に花が咲き、時間が経つのもあっという間だった。程なくしてお茶会は終わり、彼女は緋和家を後にした。



 それから乙は相変わらず、那緒とつき合い続けている。
彼女に対して、明確な答えを出したわけではなかったけれど、今の時間が楽しくてあまり気にしなくなっていた。
彩佳の方は、よく璃亜を家に招くようになった。時間さえあれば二人でお菓子を作ったり、彼が彼女にピアノを聴かせたりしているようだった。
 そんな風にずっと続いていくものだと思っていた。その時までは……。



 休日の正午、いつもより遅く目を覚ました乙は、軽く伸びをするとベッドから起き出した。
洗面台で顔を洗っているとピアノの旋律が聴こえ始めた。その音と一緒に、彼女…璃亜の声も聞こえた。

「…………」

 二人の楽しそうな笑い声を耳にして、何故かその場から動けなくなった。
蛇口を閉め忘れているのにも気付かず、意識は二人の方へと向かう。何も考えられず、胸がざわりと騒いだ。
 心の奥底から湧き上がってくる得体の知れない感情に、ただ戸惑った。



「乙? もう疲れた?」

 急に名前を呼ばれ、考え事から意識を引き戻された。
今日は、那緒のリクエストで遊園地に来ていた。一番の人気アトラクションであるジェットコースターに乗るため、長蛇の列の最後尾にいた。

「…ごめん。大丈夫だよ」

「ならいいけど…。ねぇ?」

「何?」

「…今は、お試し期間だって言ってたよね。でも、それっていつまで?」

「それは……」

 答えようと那緒に視線を向けた時、彼女の肩越しに彩佳と璃亜の姿を見たような気がして、つい顔を背けた。
だが、再度顔を上げた時に見えたのは、まったく見知らぬカップルだった。二人は、観覧車の方へと腕を組んで歩いていた。
 その光景を見た瞬間、気付いてしまった。この心から浮上してくる感情の名に。
あまりにも近くに居過ぎて、きっと見失っていたのだろう。二人から視線を外して那緒を見ると、悲しそうに言った。

「…ごめん…もう、つき合うことはできない…」

「え?」

 予想もしていなかった別れの言葉に、那緒は動揺した。

「…どうして?」

「…ごめん。理由は言えない」

「それじゃ納得できない。ちゃんと答えて」

「………」

 黙り込んでしまった乙を見つめながら、那緒は自然と涙が頬を伝っていくのを感じた。
彼女の視界の中で、乙の姿が次第に歪んでいく。こぼれ落ちた涙を、乙がそっと拭おうとした。その手を振り払って俯いて問う。

「……好きな人でもできたの?」

「………」

「………」

 沈黙を肯定と判断したのか、彼女は呟くように言った。

「…そっか、じゃあ仕方ないか。もう、これ以上いられないよね。ばいばい」

 そう言って、乙が止める間もなく列から離れて行った。すり抜けるようにして、去って行った後ろ姿に罪悪感が込み上げ、動けずにいた。

 ――――――……

 重い気持ちのまま玄関の扉を開けて、奥へ入ると彩佳がキッチンに立っていた。

「お帰り。今日はいつもより早かったね」

「うん…」

 乙の元気のない姿を見て心配し、理由を問い掛けようとした時丁度、電話が鳴った。
 彩佳が受話器を取った。話し方から察するに、璃亜からの電話のようだった。
 洗面所で聞いた時のような楽しそうな彼の声を耳にして、嫌な気持ちが込み上げそうになり、あわてて自室へこもった。
 後ろ手に扉を閉めて溜息をついた。そして呟く。

「…彩佳のことが好きだ。でも、気付いてもどうにもならない……」

 ずるずるとその場に座り込み、もう一度大きく大きく溜息をついた。





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