それからも重い気持ちをずっと引きずっていた。
 学校から帰ると玄関に彼女の靴を見つけ、憂鬱になった。
幸せそうな二人を見るのが辛くて、そのまま自室へ入ろうとしていた所を呼び止められた。

「乙。帰って来た早々悪いんだけど、璃亜についててくれないかな」

「…何かあったのか?」

「さっき倒れたんだ。気を失ってるだけだから心配ないとは思うけど、念の為看ててほしい。
僕は、ちょっと忘れ物を思い出したから取りに行ってくるから」

「……分かった」

 乙の返事を聞くと、そのまま外に出て行った。残された彼は軽く息をつくと、奥にある客間へと足を踏み入れた。
 少し大きめのソファに彼女は毛布を掛けて、横たえられていた。確かに少し顔色は悪いものの、乙の目にはただ眠っているようにも見えた。

「…………」

 しばらく、目を閉じたままの彼女を見つめていた。その時、引き込まれるかのような錯覚を覚えた。
無意識にソファに片膝をかけ、彼女の白い首に手を伸ばすとそっと触れた。

「…どうして俺じゃないんだ……」

 そのまま璃亜の首にかけた手に力を込めようとした時、玄関の扉が開く音を聞き、全身をびくりと震わせた。
乙は我に返り、今自分が何をしようとしていたのか知り、愕然とした。
 両手を見つめ呆然としている乙を見て、彩佳は肩を叩いた。

「乙? 気分でも悪いの?」

 気遣うように顔を覗き込んできた彩佳を直視することができず、動揺を隠すように小さく答えた。

「何でもないよ…」

「本当に?」

「…本当に大丈夫、だから」

 最近の落ち込んだ様子を気にしてか、再度問いかける彩佳に同じ言葉を繰り返した。
そして、そのまま逃げるようにして客間を後にし、自室へ入るとベッドに仰向けになり顔を覆った。両手の下で、うめくように低くその名を呟く。

「………彩佳………」



 彼への想いに心囚われたまま、身動きすらできずに、時間だけが過ぎていった。
 どうしようもなかった。ずっと、家族としての想いしか持っていないと思っていたのに…。
いつからだろう、想いが家族に対しての一線を越えたのは…。
 しばらくして、彩佳から、璃亜の中に新しい生命があることを知らされた。近いうちに結婚式を挙げようと思う、と嬉しそうに話してくれた。

「良かったな」

 話を聞いた時、笑顔でそう言ったつもりだった。でも、どこかで素直に喜べない自分がいたのも事実だった。
頭の片隅で、特別な想いなど消えてしまえば、どんなにか楽だろうと思った。


 果てのない地上を見渡して想う
 何処までも続く長い道
 その先に貴方は待っているのだろうか
 歌う声すら届かない…









「こんな日に教科書忘れるなんて…」

 放課後の人気のない廊下を足早に歩きながら、独り呟いた。沈みかけた夕日が窓から差しこみ、匡(きょう)の影を色濃く映し出した。
 自分の教室へ向かう途中、何処からかオルゴールの音が聴こえた。
それは彼の隣のクラスからのものだった。不審に思って耳を澄ませると、音に混ざって小さな声も聴こえた。

「…はやがて音を失くす、歌を失くす、想いを失くす……その前にどうか僕の想いが届きますように……」

 その詠うような、言葉をなぞるような声に、誘われるように近づいた。
 誰が詠っているのだろう、と思った。
 ドアの前に立ち尽くしたまま、学校に戻って来た目的も忘れて聴いていた。

「…れど貴方は…何処にもいない。だから今は歌うだけ、祈るだけ、願うだけ…」

 しばらくして音と共に声が聴こえなくなったので、中を覗こうと身を乗り出した所で、勢いよくドアが開いた。

「あ…」

 突然、目の前に声の主が現われたので硬直した。
声の主…彼は、まさか聴いている人がいるとは思ってなかったらしく、目が合った途端顔を真っ赤にして後ずさった。

「………っ」

「悪い。立ち聞きするつもりは…」

 謝りかけた匡を見て、彼は口に手を当て一つ息をついた。

「…綺麗な声だな」

 思ったことをそのまま口にすると、彼は俯き小さく呟く。

「……俺なんかより彩佳の方が……」

「え?」

「…別に。そろそろ校門が閉まる時間だ。早く出た方がいいんじゃないか?」

「えっもうそんな時間なのか」

 匡は、反射的に自分の腕時計を見て驚いた。顔を上げると、彼はすでに背を向けて歩き始めていた。
 ふと窓の外を見ると、日はほとんど落ちかけていた。
 彼と彼が、そうして出逢ったのは中間テスト前日の日のことだった。





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