翌日、昼食を終えると、いつものように友達何人かと連れ立って、バスケットコートへと向かおうとしていた。
その時、走っていたせいで勢いよく人にぶつかってしまった。

「悪い。急いでて…」

 転んでしまった彼女を、謝りながらあわてて引き起こした。

「?」

 何の反応もしないのを不審に思って見ると、ぼーっと何処かを見ていた。どうやら彼女はよそ見をしていたらしい。
 何となく彼女の視線を追った先に、見つけたのは…彼の姿だった。
瞬間、昨日聴いた彼の声と、オルゴールの音を思い出した。何故か胸が騒いだ。

「……名前を教えてくれ」

「…え?」

「今君が見てた奴の名前だよ」

「…緋和 乙だけど…」

「…緋和 乙……」

 名前が分かると、小さく確かめるように呟いた。それを見て、何か言いかけようとした彼女の言葉を遮るように、誰かが名前を呼んだ。

「那緒ぉ何してんのー?」

 那緒は言いかけた言葉を飲み込むと、振り返りその場から離れた。



 その日のHRが終わった放課後、音楽室に行こうとした所を呼び止められた。

「匡、もう帰るだろ。どっか寄って帰らねぇ?」

「俺、今日掃除当番」

「そっか。残念だな。ま、頑張れ」

「おう」

 投げやりに軽く手を挙げ、そのまま音楽室の前まで行くと立ち止まった。聴こえたからだ。あのオルゴールの音が…。
 一瞬入るのを躊躇したが、意を決してドアを開いた。

「…緋和……」

 入った途端に姿を見つけ、つい名前を呼んでしまった。彼は、グランドピアノに背を預けオルゴールを巻いていた。

「…昨日の…。どうして俺の名前……」

「…知りたかったから」

「どうして」

「さぁ…」

 実際、自分自身どうして彼のことを知りたいのか分からなかった。
お互いを見つめたまましばし黙っていたが、やがて乙は視線を外すと、別の言葉を口にした。

「…もしかして、ここの掃除当番?」

「え…ああ…」

「じゃあ俺は出て行くよ」

 そう言って、乙はオルゴールを大切そうにポケットにしまいこむと、彼の横を通り過ぎようとした。

「待って」

 思わず、出て行きかけた彼の腕を掴んだ。

「…何?」

 ほんの少し驚いたように立ち止まると、乙は彼を見た。匡は、掛ける言葉を探して逡巡したが、見つからず手を離した。

「…いや。何でもない」

 昨日と同じように、匡は立ち尽くしたまま、彼の後ろ姿を見送った。



 それからの二人に話す機会が訪れることはなく、匡の中で次第に彼への興味が薄れ始めた時だった。

「眠い……」

 レポート作成に追われ、寝不足気味の目をこすりながら小さく呟いた。
だが、今は授業中である。眠るわけにはいかない。先程返された、中間テストの答案と教師の解説を聞きながら、眠気と必死に闘っていた。
 校庭の方から、ホイッスルが聞こえ何気なくそちらに目を向けた。
体育の授業をしているようだ。その中に乙の姿を見つけ、目が離せなくなった。
 彼は笑っていた。試合形式のサッカーをしながら、楽しそうに笑っていた。初めて見る表情に心を惹かれた。

「………?」

 胸が高鳴った。けれど、その笑顔に違和感を覚えた。匡の目に、何となく無理しているように見えたからだ。
乙の心に一瞬触れたような気がして、もっと近づきたい話がしたいと思った。
 そんなことを考えている間に、授業終了を告げるチャイムは鳴り、皆次の授業の為に教室を移動しようと席を立ち始めた。

 ――――――……

 パリンッ!
 化学の実験中、間違った薬品を混ぜ合わせてしまい、持っていた試験管が割れてしまった。破片が床に散乱し、理科室がざわめいた。

「匡、何やってんだよ」

「…考え事してた」

 落ちた破片を片付けようと手を伸ばそうとして、思わず顔をしかめた。呆れて匡を見ていた友達が、覗き込みながら言った。

「うわ、手血まみれじゃん。手当てして来いよ」

「ああ…」

 何となく上の空のまま返事を返し、教師に一言断ると理科室を出た。
特別室が並ぶこの棟は、この時間はここしか使っていないせいか、廊下に出ると静かだった。





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