「失礼します」 言いながらドアを開け中に入ったが、保健医は不在だった。仕方なく、目についた包交車から必要なものを取ろうとした時、 奥のベッドで人が動く気配がした。間仕切り用のカーテンが引かれ、顔を出したのは乙だった。 もう一度話がしたいと思っていた彼に会え、驚いて手にしていた包帯を落としてしまい、床にころころと転がった。 「何でここに…」 「自習になったからさぼったんだ。あーあ。何やってんの」 乙は呆れながら転がった包帯を拾うと、彼へと近づいた。 「座って」 促されるまま、椅子に座り乙も向かい側に腰を下ろす。そのまま黙って匡の手を取ると、彼の指に包帯を巻きながら言う。 「…この傷どうしたんだ?」 「さ、さっき授業で実験してて、試験管が割れて……」 触れられた手の温かさに戸惑いながら答えた。 「気を付けなよ。はい、おしまい」 包帯止めで止め終えると、匡の指を軽くポンと叩いた。乙は、余った包帯を包交車に戻した。 治療が終わっても、匡は黙って俯いたままだったので気になって顔を覗き込むと、頬が少し赤かった。 「具合でも悪いのか?」 そう言って額に伸びてきた手を掴むなり、乙を真っ直ぐ見つめ告げた。 「好きだ」 「お前何言って…」 「お前じゃない。律川 匡(りっかわ きょう)だ」 「………」 「多分会った瞬間に好きになったんだ」 なぞるように繰り返し言った。気持ちを伝えることに精一杯で、つい掴んだ手に力が入った。 「…少し力を緩めてくれ。痛い」 「あ…悪い」 我に返るとパッと手を離した。バツが悪そうに黙り込んでしまった匡を見て、乙は小さく言った。 「…ごめん。今好きな人がいるから…」 「…そっ…か…」 沈黙の中、乙は無意識にオルゴールを取り出すと、手の中でいじり始めた。 「それ、いつも持ってるのか?」 「ああ。大事にしてほしいって言われたから、失くしたくなくて」 そう言って手の中のオルゴールを巻き始めた。静かな保健室に、ゆっくりと音が流れ始めた。 「…綺麗な曲だな…」 「彩……兄さんが作った曲なんだ」 愛おしそうに目を細めて言った。その表情を向けた見知らぬ相手に嫉妬し、匡は立ち上がると彼を抱きしめた。 オルゴールが音を立てて床に落ちた。 「ちょっ…」 戸惑い抵抗しようとする乙を力で押さえ込むと、そっと耳元で呟いた。 「…何で無理して笑うんだよ」 その言葉に核心をつかれ、抵抗する手が止まる。背中に回された、手の温かさを感じながら乙は思った。 この手が彩佳のものであれば、どんなにいいか…と。込み上げる切なさに息苦しくなり溜息が出た。 「………」 匡は、抱きしめていた手を緩めると、顎を持ち上げそっと唇を重ねた。優しく優しく気遣うようなキスだった。 融けてしまいそうな甘い感覚に囚われ、乙は身動きすらできなかった。 しばらくの間そうしていたが、やがて息が切れ唇は自然に離れた。 「はぁ…」 呼吸が自由になり、乙は少し苦しそうに息を吐いた。匡は、乙の目に浮かんだ涙をそっと拭った。 「…いきなりキスしてごめん」 匡は乙の身体から手を離すと、その場から立ち去ろうとした。けれど、彼の懇願するような声に引き止められた。 「……もう独りになるのは嫌だ…」 「………」 「…両親も彩佳もみんな離れてしまった。残ったのは…この想いだけだった」 「………」 「傍にいて…」 匡は、落ちていたオルゴールを拾うと、手にしたまま乙の前に立った。 「緋和…俺はお前が好きだ」 言い聞かせるかのように、三度目の告白をした。手を伸ばし再び抱き寄せた。 「ずっと傍にいるから」 その言葉に、安心したように匡に身体を預けた。目を閉じ、ぎこちなく手を回しながら乙は思った。 好きになってくれたのが、律川でよかった。 後ろ向きだった気持ちが、ほんの少し前へ進み始めたような気がした。 それでも、もうしばらくの間は彩佳への想いを断ち切ることはできないだろう。 オルゴールをポケットにしまい込む。いつか、このオルゴールを手離せる日が訪れるといい。乙はそう思った。 << index >> |