![]() 講師の都合で休講になったその時間、彩佳は講堂にいた。 奥にあるグランドピアノの前で立ち止まると、鍵盤の蓋を開いた。音を確かめるように人差し指で軽く鍵盤に触れる。 そして、浅く椅子に座るとゆっくり弾き始めた。もう何度も弾いた曲だった。 ベートーベン作曲ピアノ・ソナタ『月光』。彼女が一番好きだった曲。 「……砂姫(さき)さん……」 ピアノを弾きながら、記憶に眠るその人の名を呟いた。目を閉じれば思い出す、あの鮮やかな日々……。 ステレオから、静かにクラシック曲が流れている。その傍らで、生まれて間もない赤ん坊を抱いて、その人は幸せそうに微笑んでいた。 部屋の入り口でその光景を見て、幼い彼は綺麗な人だと思った。 「おいで」 彼の姿に気付くと、彼女は手招きした。彼は、招かれるまま部屋へ入ると、彼女の腕の中にいる赤ん坊をじっと見た。 「…小さい」 「彩佳にも、こんなに小さい頃があったのよ」 「そうなの?」 「ええ」 「…名前は何て言うの?」 「乙よ。たくさん遊んであげてね」 「うん」 彼女は、眠ってしまった乙をそっとベッドに横たえながら聞いた。 「お父さん達、今度はいつ帰るの?」 「分からない。いつも突然だから…」 「そう。淋しい?」 「…平気だよ。慣れてるから……」 そう言って俯いてしまった彩佳を、乙の母は優しく抱きしめた。与えられた温かさに戸惑って離れようとしたが、押しとどめられた。 「我慢しなくていいのよ」 彼女の胸から甘い花の匂いがして、彩佳は動けなくなった。 その匂いに、母親ではない女の人を感じた。くらりと眩暈がして、あわてて身を捩って離れた。 「…どうしたの?」 「なっ何でもない!」 彩佳は頬が急に熱くなるのを感じて、逃げるように部屋を出て行った。 ――――――…… 眩暈がしたあの日から、彩佳はよく彼女の家を訪れるようになった。学校帰りの道すがら花を見つけては持って帰ると、彼女は喜んだ。 その日も家を訪れ、彼は彼女が作ったココアを飲み、ステレオから流れるクラシックを聴いていた。 「これ、いつも聴いてるけど何ていう曲なの?」 「私が一番好きな曲…月光っていうのよ」 「綺麗だね」 音楽を聴きながら、部屋の隅に置いてあるピアノを見て、ふと疑問に思い口にしてみた。 「あのピアノでこの曲弾かないの?」 「練習してたんだけど、やっぱり上手くいかないのよ」 「じゃあ、僕が弾けるように練習していつか聴かせてあげる」 「本当?」 「うん。約束」 「ふふ。じゃあ楽しみにしてるわ」 この約束がピアノを始めるきっかけだった。演奏家になりたかった訳じゃない、ただ彼女に聴かせてあげたかった。 やがて彩佳は、抗えぬ程彼女を好きになってしまっていた。誰かを好きになったのはこれが初めてだった。 その四年後、彼女は夫と共に事故に遭い還らぬ人となった。幸せな日々に終止符が打たれ、約束は永遠に果たされることはないと知った。 彼女が亡くなった日の夜、声を殺して泣いた。 乙が緋和家に引き取られた時、成長してますます彼女の面影を残す彼を見るのが辛かった。 感情の種類はどうあれ、きっと惹かれてしまうと分かっていたから…。それでも、乙にとって良い兄であり続けた。 「…今ならいくらでも聴かせてあげられるのに、貴女はもう何処にもいない…」 独り言のように小さく呟くと、曲を弾き終えた。次第に、感覚が現実に引き戻されていく。 鍵盤から指を離すと、ドアが開く音がして彼女が顔を出した。 「こんな所にいたのね」 「…璃亜」 「私、彩佳が弾くピアノの音好きよ」 そう言って傍に立つ彼女を、座ったまま抱きしめた。あの人の胸と同じ、甘い花の匂いがしたような気がした。 「…どうしたの?」 「…ずっと一緒にいよう」 「うん」 今度こそ、守りたいと思った。もう二度と、あんな悲しい思いはしたくない。 僕は、今もあの人への想いに囚われたままだ。ずっとこのまま、醒めない夢の中で彼女と生きていたいと思った。 << index >> |