同日、講師の都合で休講になったその時間、特にする事もなかったので璃亜は彩佳の姿を捜していた。
何処にいるのか、見当がつかなかったので、構内を適当に歩いていた。
 図書室を捜して食堂を捜して、いくつか空き教室を覗いて、それでも見つからずトボトボと廊下を歩く。
突き当たりにある階段の前まで来て、ふと立ち止まる。

「この場所がきっかけだったんだっけ…」

 三階へと続く階段を見上げながら、ふっと笑った。階段を上りながら、その日のことを思い出していた。



 ちょうど一年前の入学したての頃のこと。
璃亜は、大量の資料を両手に抱え、急ぎ足気味に廊下を歩いていた。
そして突き当たりにある階段を、上がろうと角を曲がった所で、駆け下りてきた人物とぶつかってしまった。
その瞬間、璃亜が手にしていた資料が辺りに散らばる。互いに謝りつつ、散乱してしまった資料を拾い集めた。
資料を集め終えた時、ようやく二人は顔を上げ視線を合わせる。

「ありがとう」

 そう言って、差し出された資料の束を受け取った。その時、彼は驚いたように、硬直したまま彼女の顔を見ていた。

「どうしたの?」

「いや…何でもないよ」

 動揺を隠すかのように、視線を逸らすとそれじゃあ、と言ってその場を去って行った。それが、二人の始まりだった。
 同じ学科ということも手伝い、それ以来何かと話す機会が多くあり、すぐに友人になった。
 そしてある日、教室への移動途中、彩佳は問いかけた。まるでいつもの雑談をしているかのような、軽い口調で。

「僕達、つき合わない?」

 ほんの一瞬驚いたものの、彩佳に惹かれ始めていた璃亜はすぐに承諾した。
 その日から二人はつき合い始め、距離はぐっと近くなり彩佳を想う気持ちは、どんどん強くなっていった。
傍にいるだけで、一緒にいるだけで幸せだと思った。
 けれど、ある時偶然見てしまった。楽譜の間に挟まれた、少し古ぼけた写真を。その中で、赤ん坊を抱いた女性が静かに微笑んでいた。
その女性は、どことなく自分に似ていた。裏返すと隅の方に小さく、『砂姫と乙』と書かれていた。

「………」

 直感的に、この人は彩佳の好きな人なのだと思った。そして、初めて会ったあの日、どうしてあんなに驚いていたのか分かった。
自分を通して、この人を見ていたのだと思うと、ただ悲しくて知りたくなかったと何度も思った。
 本当に彩佳を好きになっていた今、離れるなんてことは考えられなかった。
だから…



「…だから覚悟を決めたのよね」

 自分ではない人を想い続けている彩佳を、好きであり続けることを決めた。たとえ、想いは叶わなくとも。
 思考が現実へと戻り、三階に辿り着いた時、講堂の方からピアノの音が聴こえた。
曲名は…何度も隣で聴かせてもらった『月光』だった。だから弾いているのは彼だと思った。
璃亜は講堂の前まで来て、扉を開けようとした所で手を止めた。

「……砂姫さん……」

 呟くような声のはずなのに、何故かピアノの音に混じって耳に届いた。何となく、入るのが躊躇われて扉の前でその一曲が終わるのを待った。
 軽く目を閉じて聴きながら、あの時写真が挟まっていた楽譜は、この曲だったなとぼんやり思った。
 しばらくして曲が終わった。璃亜は扉の前で一つ深呼吸をすると、ゆっくり扉を押し開けた。

「こんな所にいたのね」

「…璃亜」

 中に入って来た璃亜の姿に気づくと、彩佳は安心するかのように微笑んだ。まるで、璃亜を通して、遠い日に亡くした彼女の姿を見るかのように。

「私、彩佳が弾くピアノの音好きよ」

 言いながら傍に立った璃亜は、座ったままの彩佳に抱きしめられた。

「…どうしたの?」

 幼い子供をあやすかのように、胸に優しく頭を抱きながら問いかける。そして髪に、そっとキスを落とす。

「…ずっと一緒にいよう」

「うん」

 祈るように願うように、二人は約束を交わした。偽りであろうとも、それは確かに恋愛で、少し悲しいけれど、これで良かったのだと思った。





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