乙が匡から告白を受けて、二週間が経った頃、彩佳から招待状を受け取った。

「これ何?」

「結婚式の招待状だよ」

「あ…決まったんだ。いつ?」

「一週間後」

 具体的な日を聞いて、乙は自分が少なからず動揺していることに気がついた。

「…どうしたんだ?」

「いや、何でもない」

 動揺を悟られまいと、覗き込んでくる彩佳の視線から、ふいと目を逸らした。

「…結婚式には誰か呼ぶのか?」

「いや。身内だけでやろうと思って」

「ふぅん」

 曖昧な返事を返した乙に、彩佳は思ってもみないことを問う。

「例の告白してきた女の子とは、その後どう?」

「どうって…別れたよ…」

 いきなりの問いに戸惑いながらも、そう答えた。

「そう…」

 それきり彩佳が黙ってしまったので、意図が掴めず、逸らしていた視線を彼に向けた。沈黙の中、二人は目を合わせたままだった。
やがて、彩佳は乙へと両手を伸ばすと、頬を包むようにし唐突に告げた。

「…乙は砂姫さん似だね」

「…母さん?」

「よく似てる…」

 そう言って間近に引き寄せると、囁いた。

「僕のこと、どう思う?」

「………」

 勿論、好きに決まっていた。けれど、以前思っていた好きと今思う好きは、あまりにも意味が違いすぎて答えられない。
戸惑う乙に、そっと唇を寄せた。驚いたものの、次第に深くなる口付けに抵抗すら忘れた。
唇を割られ、舌で歯列をなぞられ、舌を絡めとられ唾液が混ざり合う。

「んっ……」

 息ができない苦しさと、消えない想いの切なさに思考が次第に麻痺していく。
どれ程そうしていただろう。やがて、彩佳は乙を解放すると小さく呟いた。

「ごめんね…」

 乱れた呼吸を整えるのに必死だった乙には、その言葉は届かなかった。



 その後は、何事もなかったように、日々は過ぎていった。
彩佳は結婚式の準備の他にも、何やら慌ただしく、ばたばたと引越しの準備をしていてあまり話す機会はなかった。



 結婚式の前日、彩佳は乙を部屋に招き入れて、ピアノを聴かせていた。
曲名は『永遠』。曲に乗せて彩佳が詠う。それは、包み込むように優しく、深く伸びやかな声だった。弾き終えると、彩佳は言った。

「大切だと思える人には逢えた?」

「まだ…」

「きっと逢えるよ。大丈夫」

 そうだろうか…。
彩佳はすっと椅子から立ち上がると、考えるように視線を落とした乙を、抱きすくめた。そして、耳元で甘く囁く。

「…壊していい?」

「何を」

 それには答えず、抱きしめる腕を緩め顔を寄せ、互いの息がかかる距離まで近づいて…何もせず離れた。

「冗談だよ」

「…この前のことと言い、何を考えてるんだ?」

 微笑む彩佳に乙が問う。

「ちょっとした出来心だよ。嫌だった?」

「そんなことは……」

 ない、と言いそうになってあわてて口を噤む。恐る恐る彩佳を見ると、彼は微笑んだまま別の言葉を口にした。

「僕は明後日ここを出るよ。こうやって、乙にピアノを聴いてもらえるのも最後だね」

 この家を出ることは知っていたはずなのに、言葉にされると、どう反応すればいいのか分からなくて戸惑ってしまう。
気がついたら、彩佳の腕を掴んでいた。

「そんなに離れたくない?」

「え……」

 揶揄するように言われて、無意識に掴んでしまった彼の腕を慌てて離した。

「…ごめん」

 顔を赤くして小さく謝る乙を見て、彩佳は笑いながら彼の頭をぽんぽんと優しく叩いた。

「会えない距離じゃないんだから、いつでも遊びにおいで」

「…うん」

 彩佳の胸の辺りに視線を置いて、どこか淋しそうに笑う。
そんな風に心に素直な感情を持つ乙を、愛おしいと思った。だからつい、あの時キスしてしまった。
乙が引き取られて来たあの日から、ずっと一緒に暮らして、予感通り心惹かれた。
この感情が、家族としてのものなのか、それとも特別な意味でのものなのかは分からないけれど…。
ただ、誰よりも幸せになってほしい。そう思った。



 その夜、乙が眠りに就いた頃、彩佳は静かにグランドピアノの傍へ行き、暗い夜色をしたそれに視線を落とした。

「…………………」

 手を伸ばし天板に触れ、そのままゆっくりと滑るように上半身を横たえた。
そして瞼を伏せ、天板に触れながら、愛しい人の姿を思い浮かべる。それは砂姫なのか、璃亜なのか、それとも乙なのか…。
やがて、一つ息を吐くと身を起こし、鍵盤の蓋を開けその中に、持っていた砂姫の写真と楽譜を乗せた。

「…さよなら……」

 小さな声でそう告げると、静かに蓋を閉めた。



 翌日、小さな教会で二人は結婚式を挙げた。この日ばかりは彩佳の両親も帰国し、二人を祝った。
 そして宣告通り、彩佳はこの家から出て行った。璃亜と新しい生活を始めるために。
 彩佳がいなくなり、両親も海外へ仕事に戻り、残された乙は彩佳の部屋にいた。
唯一残されたグランドピアノにうつ伏せ、しばらく、がらんとした部屋を眺めた。

「…彩佳……」

 呟くような小さな声で、その名を呼ぶ。温もりを探して自身を抱きしめ、目を閉じて最初に蘇るのは、あのキスの感触。
どんなに好きでいても、届かないことを知っているのに、それでも想いは止まらず…

 ――――――……

 やがて、ゆっくりと目を開け身体を起こすと、そのまま彩佳の部屋を後にした。





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