式の翌日、新居へ運び込むため、トラックから出したダンボールや家具類を見て、璃亜はある物がないことに気が付き、問いかける。

「ねぇ、あのピアノは?」

「置いてきたけど」

 その質問に対し、彩佳は当たり前のことのように、さらりと答えた。

「どうして?」

 てっきり、一緒に持って行くものだとばかり思っていたので、思わず重ねて聞いた。

「多分、入らないだろうと思って。それと…けじめをつけるために」

「けじめ?」

「…何でもないよ。それと、ピアノなら大学の講堂にはあるんだから、そこでまた弾いてあげるよ」

「うん」

 嬉しそうに微笑む璃亜を見て、彩佳は、今度は彼女のために弾いてみてもいいなと思った。
そして、ふと彼女に対して、小さな罪悪感を覚えた。

「…ごめん」

 無意識のうちに、そんな言葉が口をついた。彩佳自身、どうして謝ってしまったのか分からず、困惑した。
 それを聞いて、璃亜は無表情で彩佳を見つめながら、ぽつりと呟くように言う。

「…そんな言葉聞きたくない。聞きたいのは……」

 最後の言葉は、彼の耳には届かず、何でもないと言って聞き返されるのを避けた。
代わりに、璃亜は彩佳へと手を伸ばし、その腕を求めた。璃亜の求めに応じるように引き寄せられ、そっと抱きしめられる。
自分もその背に手を回しながら、幾度目かの告白を口にする。

「彩佳、私は貴方が好きよ」

「僕も好きだよ」

 何の迷いもなく返される、幾度目かの言葉。その言葉を聞くと少しだけ胸の奥が痛い。
それでも覚悟を決めたあの日から、願っていた。
いつかあの人ではなく私を見てくれる日が来てほしいと。そして、規則正しい彩佳の鼓動を耳にしながら、そっと目を閉じた。








 彩佳が家を出てから、数日後。
 昼休みの誰もいない屋上で、乙と匡は並んで座り、流れる雲を何気なく見ていた。
ふいに匡は、視線を、空から乙の横顔へと移しながら口を開いた。

「なぁ、緋和」

「何?」

「まだ告白の返事、貰ってないんだけど」

「あ……」

 どう答えていいか分からず、乙は困ったように、視線を下に向けてしまった。そんな乙を見て、匡は一つ溜息をついた。

「…いいよ。気長に待つつもりだから」

「…ごめん」

「謝るなよ。そのかわり」

 ずいと顔を近づけると、笑って言った。

「名前で呼んでいい?」

「いいけど…」

「やりぃ。じゃあ俺のことも名前で呼んでくれよ」

「分かったよ、匡」

 匡は満足そうに笑うと、触ってもいいかと聞いた。あれ以来、一度も無理強いすることはなく、こうして必ず聞いてくる。
 乙は少し戸惑いながらも、その度に小さく頷いた。心地良い好意に、断る理由など思いつかなかったから。
 匡は乙の了解を得ると、そっと手を伸ばし髪に触れ、額を合わせた。そして、呟くように言う。

「乙が好きだよ…」

 再度の告白に、応えられない辛さにぎゅっと目を閉じた。
そんな乙を見て、無意識に発してしまった自分の言葉に、すぐさま後悔し思わず抱きしめた。

「ごめんな」

 乙は顔を上げられず、目を閉じたまま首を振る。

「…俺の気持ちは迷惑になってないか?」

 その言葉にも、否定の意味を込めて、強く首を振った。

「そっか。良かった」

 安心したように、ほっと息をついた後、そっと抱きしめていた乙の身体から手を離した。
 そこで、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り、二人はそれぞれの教室へと戻った。





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