乙は、午後の授業を受け終え、一人帰路についた。
匡とは特に帰る約束をしていたわけではなかったし、何となく一人になりたい気分だったのでそうした。
 鍵を開けて、扉をくぐっても勿論迎える者はいない。
彩佳が出て行ってから、一人で暮らすことに慣れはしたものの、やはり寂しいと思った。
 部屋に鞄を置いて、着替えを済ませると、鞄に入れてあったオルゴールを取り出した。
ゆっくりと螺子を巻いて、奏で始めた音色に耳を傾ける。

「…永い時間を繰り返す…この世界の……」

 音に乗せて詠おうとして、途中で止めた。螺子を巻く手も同時に止めると、引き出しにしまった。
彩佳のことを想って悲しくなるのが分かったから。
だから…止めた。
 台所に入ると、残り物で手早く作って夕食を済ませた。
 その後は課題を済ませ、少し予習をし、風呂に入ってから眠りについた。



 翌日の放課後、昨日同様一人で帰ろうとしていた乙は、偶然下駄箱で匡と一緒になった。

「匡…」

 先に彼の姿に気づいた乙は、反射的に声をかけた。呼ばれて、匡も彼の姿に気づくと言った。

「たまには一緒に帰らないか?」

 クラスが違う二人は、なかなか同じ時間にHRが終わらないため、数える程しか一緒に帰ったことがなかった。ので、乙はいいよ、と答えた。
 校門を出て並んで歩きながら、乙はふと、那緒のことを思い出した。路上で突然告白されたことも…。
 そんなことを考えつつ、彼は匡と他愛ない話をしていた。

「一雨きそうな天気だな」

 前を行く誰かが、空を見上げてそう言った途端、雨が降ってきた。夕立だった。
 突然の雨に一時騒然となり、おのおの、何処か雨宿りできそうな場所を目指して走り出した。

「あそこへ入ろう」

 そう言って匡は、乙を脇にある屋根のあるバス停へと促した。
制服についた雨の雫を手で払いながら、空を見て言う。

「…止むまでここで待つか?」

「それより、俺の家ここから近いから走らないか?」

 乙が匡同様、雫を払いながら問い返した。

「濡れたままで行って迷惑じゃないか? 結構降ってるぞ」

「家には誰もいないから大丈夫だよ」

「そうなのか」

「ああ。じゃあ決まりだ」

 言って、すぐに二人はバス停から出た。そして、乙の家を目指して走り始めた。



 五分程走って、彼の家まで辿り着く頃には、二人とも全身を雨に濡らしていた。
 先に家の中に入った乙は、玄関にいる匡にタオルを手渡した。

「これ使って」

「さんきゅ」

 受け取って、濡れた顔や腕を拭くと、おじゃましますと言って靴を脱いだ。入って行くと、乙は何やらごそごそと服を取り出していた。

「なぁ匡、風呂使うか?」

「別にいい。平気」

「遠慮するなよ。ほら」

 サイズは合うと思う、とつけ加え、バスタオルと替えの服を差し出した。
促されるままに、風呂場へと案内され、匡は仕方なく借りることにした。その後、乙も軽くシャワーを浴びた。
 夕立が過ぎるのを待つ間、お湯を沸かしお茶を入れ、暇つぶしに話をした。そのうち、互いの家族へと話が及んだ。

「親が留守ってことは、乙の家って共働きなのか?」

「共働きというか、両親は今海外で仕事してるから、一人暮らししてるようなものなんだ」

「ふぅん…て、あれ? 前に兄貴がどうとか言ってなかったっけ」

「ああ、うん。一人いるよ。けどこの前結婚して出て行った」

「………」

 お茶を啜りながら、努めて淡々と話す乙を見て、匡は少し複雑な気持ちになった。
視線を感じたような気がして、乙が顔を上げると丁度目が合い、二人は何となく黙った。
 沈黙が流れ始めた時、雨音が止み、窓ガラスを通してオレンジ色の光が入り込んできた。

「雨止んだみたいだな」

 外が明るくなったことに気づいて、乙はソファから立ち上がると、窓を開けた。

「じゃあ帰るよ。服は…と」

「そのまま着て帰っていいよ。服返すのは、いつでもいいから」

「分かった」

 そう言って、匡は鞄と脱いだ制服を手にすると、じゃ、と足早に玄関を出て行った。

「あのままいたら、絶対何かしてたな俺…」

 夕刻の道を歩きながら、自分の手を見下ろし、匡はぽつりと洩らした後深く息をついた。



 再び誰もいなくなったリビングで、乙は改めて、告白について考えてみた。けれど、断ち切れない想いがあるのも確かで…。
 匡がくれた好意を手放したくない。
そう思った瞬間、気がついてしまった。
いつまでも、同じ気持ちのままでいてくれるとは限らないのだと。友達にすら戻れなくなって、また一人になってしまったとしたら…。

「………っ!」

 恐れが形を持たぬまま、乙の心にのしかかった。身勝手だと分かっていても、失いたくないと思った。



 それから乙は、積極的に匡と二人でいる時間を作った。
下校したり、遊んだり、勉強をしたり、あらゆる時間を二人で過ごした。そうやって、不安を拭い去ろうとした。



 その日、二人で遊び回った帰りに喉の渇きを覚え、公園にある自動販売機でそれぞれジュースを買った。
そして、ベンチに落ち着くと、ジュースを一口飲んでから、おもむろに匡は言った。

「最近どうしたんだ?」

「何が?」

「何がって…最近、やたらと俺を誘うじゃん」

「…迷惑?」

「いや、それは嬉しい。ただ…」

「ただ?」

「あの時みたいに、無理して笑ってるように見えるから」

「そんなことは…」

 否定しようとして、身体の中心からすぅっと力が抜けていくのが分かった。ずっと考えていたことを、見透かされてしまったように思った。

「なぁ、どうしたんだよ」

 問いかけに、黙ったままでいる乙の腕を掴むと、真正面から見つめた。真剣な眼差しに観念したのか、乙はゆっくりと口を開いた。

「…このまま答えを出さずにいたら、いつか、匡は俺から離れていくんじゃないかって思…って…」

 必死の思いで、そう言った乙に匡は笑った。

「そんなこと思ってたのか。でもな、離れるなんてありえない。だから安心しろ」

 そう言って、乙を優しく包むように抱きしめた。
 腕の温かさを感じながら、ふと、こうして抱きしめられるのは何度目だろうと思った。不思議と、ずっと感じていた不安がどこかへ消えていた。
 少しお互いの身体を離して、思案するように視線を彷徨わせた後、思いきって言う。

「やっぱりつき合わないか? そりゃ、今のままでも十分楽しいし、こっちへ気持ちが向くのをずっと待とうと思ってるけど…けど…」

「いいよ」

 なおも言いかけようとした、匡の言葉を遮って答えた。
 自然に口から出た言葉に、乙は自分自身驚いた。
どうやら、傍にいられなくなるかもしれない不安を消すために、二人で過ごした結果、迷っていた一歩を踏み出せたようだった。

「本当か?」

 匡も予想していなかった返事に驚いて、思わず確かめた。それに対して、乙は頷くと初めて自分から抱きついた。
 ずっと苦しみでしかなかった、彩佳への想いから解放され、匡の気持ちに応えられた。
そのことが嬉しくて、一旦離れると、乙は微笑んだ。それは、本当に心からの笑顔だった。

「やっと笑ったな」

 そう言って、匡は乙に微笑み返した。



 乙は今度こそ、ずっと好きだった彩佳に、笑って「おめでとう」と言えるような気がした。
同時に、匡の傍にいられるこの瞬間を大切にしたいと思った。



   〜The End〜





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